LOGINケイルの胸から噴き出した漆黒の炎は、倒れていた暗殺者たちの身体を避けることも、彼を守ろうと駆け寄った騎士たちを見分けることもしなかった。
炎は意思を失った獣のように峡谷を駆け、雪を一瞬で蒸発させながら岩肌を黒く焼いた。熱風に煽られたエララの髪が大きく舞い、剥き出しになった頬へ焼けるような痛みが走る。
「皇后陛下、お下がりください!」
レオニスがエララの前へ立ち、黒い盾を構えた。
盾の表面には竜の鱗を模した紋様が刻まれていたが、ケイルの炎に触れた部分から赤く変色していく。このままでは長く持たない。
「陛下、聞こえますか。炎をお収めください!」
レオニスが呼びかけても、ケイルから返事はなかった。
彼は片膝をつき、胸を押さえたまま、浅い呼吸を繰り返している。襟元から覗く肌には黒い鱗が急速に広がり、首筋を這うように頬へ達しようとしていた。
右目は苦痛に
第43話 王妃から届いた二通目の手紙銀板から響いた三度の音が消えたあとも、会議室にいた誰もすぐには動かなかった。王都から伸びる黒い糸は、もう見えなくなっている。それでも、扉の外に何者かが立ち、こちらの返事を待っているような圧迫感だけが室内に残っていた。「セランを診療室へ戻せ。刻印の状態を絶えず確認し、本人の許可なく包帯を外すな」ケイルが命じると、二人の兵士が一礼した。セランは退室しかけたところで銀板を振り返ったものの、何も言わずに連れていかれた。昨夜までの彼なら、大司教から呼びかけられたことを恩寵だと受け取っていただろう。今は、あの音が自分を心配する呼びかけなのか、逃亡を防ぐための確認なのかさえ、信じきれなくなっている。ローデンは王都周辺の地図を机へ広げ、国境の監視を増やすべきだと提案した。教会がセランとの繋がりに異変を感じたのであれば、次に何を送ってくるか分からない。使者か、暗殺者か、それとも新たな命令を刻まれた人間かもしれなかった。「検問を強化しすぎれば、こちらが何かを掴んだと教えることになります」エララは地図の北側へ指を置いた。「公開裁問で不正が明らかになった以上、警戒を強めること自体は不自然ではありません。ただし、教会関係者だけを止めれば、セラン司教の証言から大司教へ辿り着いたと気づかれるでしょう。通常の密輸対策として、すべての荷馬車と旅人を同じ基準で調べてください」「時間がかかるぞ」「そのために、通行証を持つ商人と、緊急の医療物資を運ぶ者の確認口を分けます。裁問の影響で薬が不足している地域もありますから、物資の流れまで止めるわけにはいきません」ローデンが頷き、地図へ新しい検問所の印をつけた。ケイルは腕を組んだまま二人のやり取りを聞いていたが、エララが三つ目の指示を口にしかけると、その肩へ手を置いた。「昨夜、眠る前に作戦を立てるのは二つまでと言っていたな」「今は朝です」「屁理屈を覚えたか」「あなたから学びました」「俺は、お前ほど真面目な顔で屁理屈を言わない」ローデンが地
第42話 罪人は何を信じて生きるのか翌朝、エララが目を覚ますと、寝台の脇に置かれた椅子でケイルが眠っていた。背の高い彼には明らかに窮屈な椅子だったが、片方の腕を組んだまま背もたれへ体を預け、もう一方の手ではエララの指を包んでいる。夜のうちに何度か握り直したのだろう。指先には彼の体温がすっかり移り、目覚めたばかりの冷たい手が、その部分だけ温かかった。窓の向こうでは、朝の光を受けた雪が薄青く輝いている。皇城の屋根から落ちた雪の塊が庭石へぶつかり、遠くで鈍い音を立てた。室内の暖炉には火が残っていたものの、薪はほとんど熾火になっており、空気には夜明け前の冷たさが混じっている。エララはケイルを起こさないよう、そっと手を抜こうとした。昨夜は刻印の調査が終わるまで傍にいてくれたのだから、少しでも長く休ませたかったのである。ところが、指を半分ほど引いたところで、ケイルの手が強く閉じた。「どこへ行く」目を閉じたまま発せられた声には、眠気より警戒が滲んでいた。「まだ寝台から下りてもいません。それに、逃げようとしたわけではなく、あなたの手を離そうとしただけです」「俺が眠っている間に一人で動くなら、同じことだ」ケイルはようやく目を開け、エララの顔をじっと見た。焦点が合うまでわずかな時間がかかったものの、昨夜より血色が戻っていると分かると、張りつめていた眉間が少し緩んだ。「頭は痛むか」「もうほとんど痛みません。目眩もありませんし、手足にも力が戻っています」「空腹は?」「少し」「ならば、何か食べてから事情聴取へ行く」エララは上半身を起こし、枕元に置かれた時計へ目を向けた。「開始まで、あまり時間がありません。食堂へ寄っていると遅れます」「食事を持ってこさせる。お前は昨日、朝からまともに食べていない」「裁問の前にパンを一つ食べました」「ひと口だ。しかも、ルーマに半分渡していただろう」「よく見ていますね」「お前に関しては、見ていないと危ないからな」
第41話 刻印に残された声公開裁問が終わってから二刻ほど経った頃、皇城の北棟にある診療室は、薬草の青臭さと消毒用の酒精が混じった匂いに満たされていた。エララは窓際の長椅子に腰掛け、リナが用意した蜂蜜入りの温かな茶を両手で包んでいた。広場では気力だけで立ち続けられたものの、皇城へ戻った途端、手足の芯まで冷え切っていることに気づいたのだ。誓約の糸を見続けた目には鈍い痛みが残り、視界の端には、存在しない銀色の光が何度も瞬いている。向かいに立つケイルは、そんなエララを腕組みしたまま見下ろしていた。椅子へ座るよう勧めても動こうとせず、茶を半分飲むまでは調査を始めさせないと言い張っている。「もう十分に飲みました」「半分にも届いていない」「先ほどから量ばかり見ていますが、私の顔も見てください。倒れそうに見えますか」「倒れそうな人間ほど、自分は倒れないという顔をする。お前の場合は特に信用できない」「以前より慎重になったつもりです」「以前が無謀すぎただけだ。死にかけるまで力を使っていた者が、倒れる寸前で止まれるようになったからといって、慎重とは呼ばない」痛いところを突かれ、エララは反論できなくなった。仕方なく茶へ口をつけると、蜂蜜の甘さの奥に眠り草の苦味が混じっていることに気づく。リナへ目を向けると、彼女は診療器具を並べながら、何も知らないという顔で視線を逸らした。「リナ、これに何を入れましたか」「蜂蜜と、ほんの少しの眠り草でございます。主治医の許可はいただいております」「これから刻印を調べると知っていますよね」「だからこそです。調査が終わったあと、皇后陛下が素直にお休みになるとは思えませんので、先に準備いたしました」「まだ戴冠していませんから、皇后ではありません」「では、陛下が人前で何度も妻と呼んでおられる方、とお呼びいたしましょうか」ケイルが満足げに頷いたため、エララは茶器の向こうへ顔を隠した。リナは真面目な顔を保っているものの、口元だけがわずかに緩んでいる。裁問の最中は張り詰めていた彼女も、エララが無事に
第40話 偽りの番が暴くものかつてルシアンが運命の証として掲げていた、偽りの番の刻印。セラン司教の手首に浮かんだ紋様は、細部まで同じではなかった。ルシアンの刻印が二つの魂を結ぶように装っていたのに対し、こちらは何本もの黒い糸を銀色の枠へ無理やり押し込み、ひとつの印に見せかけている。それでも、自然に生まれた絆には決して存在しない不均衡と、他人の意思を削って形を保つ歪さは酷似していた。エララが見間違えるはずはなかった。一度目の人生で彼女を縛り、二度目の人生でもなお追いすがってきた偽物と、同じ思想から作られたものだった。「その刻印を、どこで手に入れたのですか」エララが尋ねると、セランは反射的に右腕を背後へ隠した。ほんの少し前まで、毒を使った裁問の証拠さえ冷静に否定していた男とは思えないほど、露骨な動きだった。「何のことでしょう。私の腕にあるのは、高位聖職者が神へ忠誠を捧げる際に授かる聖印です。部外者に説明する義務はございません」「忠誠の証であれば、なぜ隠すのです」「肌を人前にさらさないことも聖職者の礼節です。まして、あなたは教会の教義を歪めて解釈し、誓約へ干渉する異端の術を用いたばかりでしょう。私が警戒するのは当然ではありませんか」否定の言葉は滑らかだったが、セランの袖の内側では黒と銀の糸が絶えず蠢いていた。刻印は心臓へ根を張るだけでなく、首筋から頭部へ細い糸を伸ばし、彼が何を見て、何を恐れ、どの言葉を選ぶのかまで探るように明滅している。それは伴侶同士を結ぶ印ではない。誰かを愛するためのものでもなければ、信仰を支えるためのものでもない。刻印を授けた者が、離れた場所から人間を動かすための手綱だった。ケイルもセランの異変を察したらしく、エララの腰へ回していた腕を解くと、彼女を庇う位置へ半歩進んだ。「袖を上げろ」「竜皇陛下といえど、教会の司教へそのような命令を下す権限はございません」「ならば命令ではなく、被疑者に対する要求だ。お前の馬車から毒薬と偽造された裁問記録が見つかり、お前の血で結ばれた強制誓約まで押収された。これ以上、聖職者の立場だけで守られる
第39話 奇跡ではなく、治療によって「すべて話します。教会がこの裁問のために何を用意し、誰を犠牲にするつもりだったのか、私が知っていることを、今度こそ自分の言葉で証言します」ラウルの声はひどく掠れていたが、広場を満たしていた人々のざわめきは、誰かに命じられたわけでもないのに静まっていった。彼の喉には、つい先ほどまで命を締め上げていた黒い誓約の痕が、細い指のような紫色の腫れとなって残っている。その痛ましさは、彼が何かを恐れていることを隠さなかったが、それでもラウルは俯かず、裁問台の向こうに立つセラン司教を正面から見据えていた。「罪人の証言に価値はありません」セランは即座に言い切った。声は落ち着いていたものの、聖杖を握る右手には普段より深く力が入り、白い革手袋の表面に細かな皺が寄っている。「ラウル助祭は、教会から授けられた誓約を自ら破棄し、異端の力に身を委ねました。彼が今から口にする言葉は、竜皇国に迎合するための偽証であり、信仰を捨てた者が自分の罪を軽くしようとする浅ましい弁明にすぎません」「それはずいぶん便利な理屈だな」ケイルがエララの傍らから動かないまま、低く応じた。彼はラウルに向けていた警戒を緩めてはいなかったが、証言を始める前から証人を偽者と決めつけた司教に対し、隠す気のない不快感を示していた。「教会の命令に従っている間は清廉な聖職者で、都合の悪いことを話そうとした途端に罪人になるのか。お前たちの信仰は、随分と忙しく正しさを着替えるらしい」「陛下には、聖職者の戒律をご理解いただけないのでしょう。信仰には、世俗の法では測れない秩序がございます」「理解するつもりはある。だが、子どもに毒を飲ませ、母親の声を誓約で奪い、仲間の司祭まで口封じの誓いで殺そうとする秩序なら、理解したうえで踏み潰す」ケイルの言葉に呼応するように、広場の外周を固める竜皇国兵たちの鎧が鳴った。教会騎士も剣の柄に手を置き、両者の間に張り詰めた空気が走る。ほんの一人が抜剣すれば、公開裁問の広場が戦場へ変わりかねない。エララは、ケイルの袖を指先で軽くつまんだ。「踏み潰すのは、証言と証拠を確認し
若い司祭が石床へ倒れた瞬間、周囲にいた聖職者たちは助け起こすどころか、怯えたように後ずさった。 胸元から引きちぎりかけた聖印が鎖にぶら下がり、石へぶつかって乾いた音を立てている。司祭は両手で喉を押さえ、呼吸を求めて口を開いていたが、声も空気もほとんど通っていない。顔色は見る間に青ざめ、こめかみから浮き出た血管が不自然に脈打っていた。「道を空けてください!」 エララが駆け寄ろうとすると、握られたままだった手が強く引かれた。「待て。ミリアの誓約より危険に見える」 ケイルはエララを自分の背後へ庇いながら、倒れた司祭とセヴランを交互に見た。「危険だからこそ急がなければなりません。このままでは心臓が止まります」「おまえまで巻き込まれたら、誰があの糸をほどく」「では、一緒に来てください。一人で触らなければ、あなたも少しは安心できるでしょう」「その言い方は卑怯だな」「妻を一人にしないと、先ほどご自分でおっしゃいました」 ケイルは苦い顔をしたものの、手を離さず、エララとともに若い司祭のそばへ向かった。 教会側から、年長の司祭が二人進み出る。そのうち一人が倒れた若者の肩へ触れようとしたため、ケイルは空いた手で腕を払いのけた。「触るな」「ラウル司祭は我々の同胞です。教会の治療所へ運びます」「広場を封鎖しておきながら、どこへ運ぶつもりだ。しかも、おまえたちはこいつが倒れるまで一歩も動かなかった」「突然のことで、驚いただけです」「では、そこで驚いたまま立っていろ。近衛兵、この二人を下がらせろ」 年長の司祭たちは抗議したが、近衛兵に進路を塞がれると、それ以上は近づけなかった。助けるために急いでいるというより、ラウルと呼ばれた若者をエララから引き離したがっているように見える。 エララは膝をつき、ラウルの首筋へ指を当てた。脈は速く、二度、三度と続いたあと、長く途切れる。胸もわずかにしか動いていない。「ヘルマン先生、こちらへ来てください!」「今すぐ参ります。エステル先生、エマ嬢を頼みますぞ」 ヘルマンは少女の治療をエステルへ任せ、薬